今日も一人でお昼ごはん

コミュ障・人見知りで友達のいないぼっちおばさん専業主婦のひとりごとです。

父への恨みつらみ

 

こんにちは。

 

おどろおどろしいタイトルなので引かれた方もおられるかと思いますが、ちょっと父の話をしたいと思います。

 

父は4年前に亡くなりましたが、私は父に対していまだに感謝と恨みが混ざり合った複雑な感情を持っています。

 

父は昭和ヒトケタ生まれ。典型的な昭和のおっさんでした。

昭和のおっさんの代表はサザエさんの父、波平だと思います。波平をもっと粘着質にしたのがうちの父です。

昭和のおっさんたちは酒が何よりの楽しみ、という人が多かったんじゃないでしょうか。

今のように趣味や楽しみや時間潰しの方法が沢山あったわけではないので。

 

土曜日も半ドンでしたが出勤していて、お休みは日曜日だけでした。

その日曜日はゴルフの打ちっぱなしか、居間で煙草をくゆらせながらゴロ寝でテレビ。

家族サービスもほぼしないしもちろん家事もしません。

 

ひとつの会社に定年まで勤めあげ、その後は家で趣味の書道をしながら好きな時に酒を飲んで好きな時に寝る、という生活を30年以上送りました。

 

私を虐待することもなく育て上げてくれたことには感謝していますが、それは子どもを儲けた親として当然のことだと思うので、それ以上に感謝することもありません。

私も子どもたちを育てているけど、それは親として当然のことをしたまでであって、それ以上のことではないと思っています。

 

大酒飲みで酔っ払ってさらした醜態は私も何度か目にしています。

自分に甘い人だなと子どもの頃から感じていました。

 

父を恨んでいる理由は、母の寿命を縮めた原因は父だと私は信じているからです。

 

父はお酒もすごかったですが、昭和のおっさんに典型的なヘビースモーカーでした。

母は70過ぎのとき、突然肺炎を患い、一時は人工呼吸器をつけるほど衰弱して、もうダメかと思う時もありました。

なんとか一命をとりとめて退院することも出来たのですが、結局それが原因で入退院を繰り返し、すっかり弱ってしまって平均寿命まで生きることが出来ませんでした。

 

母の病気は間質性肺炎という難病でした。

タバコが原因と決めつけることはできないでしょうが、結婚して以来ずっと何十年も、母は受動喫煙を強いられていました。

 

退院して家に戻った時も、父は煙草をそれまでと変わりなく吸い続けました。それどころか母を以前の健康な時の母と同じようにこき使いました。

 

我慢強い母がついに悲鳴を上げて遠方に住んでいた私に助けを求め、私も初めて事の重大さに気づき、兄に連絡を取って、二人を老人施設の別々の部屋に入居させたのです。

 

母はやっと、父と離れることが出来ましたが時すでに遅しでした。

酒浸りでまともに歩けなくなった父は平均寿命以上に生き延びて亡くなりましたが、そのわずか1年後に母も亡くなりました。

 

母は酒もたばこもせず、健康に気を使って運動教室やスイミングにも通っていて、肺炎になるまでは重病を患うこともなかったので、もっと長生きするものだと私は思っていました。

 

それだけに、父が母に与え続けた受動喫煙とストレスと数々の仕打ちを思い出すたびに暗い気持ちになり、母を救えなかった自分にふがいなさを感じ、父への恨みが甦ってくるのです。

 

ここには書けませんがもっとひどいことを父はしていました。

父は母のことを父なりに想っていたようですが、子供じみた自分勝手な愛着に過ぎなかったのではないかと思っています。

死ぬまでそれがわからなかったのですから、頭の中お花畑、つまり馬鹿は死んでも治らないということですね。

 

親からのほぼ強制的なお見合いで、母は父との結婚も素直に応じたのだと思います。

もっと良い人と一緒になっていたら、母の一生はもっと幸せだったにちがいないと思っています。

 

もう死んだのだから恨んでもしょうがないしそういうのが子どもっぽいのもわかるのですが、やはり父への恨みはなかなか消えてくれなさそうです。

 

読んでいただいてありがとうございました。暗い話ですみません(^^;)

 

 


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