今日も一人でお昼ごはん

コミュ障・人見知りで友達のいないぼっちおばさん専業主婦のひとりごとです。

モラハラ夫の行く末


 
 

こんにちは。いつも遊びに来ていただいてありがとうございます。

 

モラハラ夫代表の父の話です。

父は、昭和一ケタ世代で男尊女卑思想が骨の髄までしみ込んだ、どこに出しても恥ずかしくないモラ夫でした。

気に入らないことがあるとブチ切れるとか、しつこくしつこく説教を何時間も続ける、といった、狭義のモラハラには当てはまりませんが、妻は自分の持ち物であると当然のように思っていたという点では立派なモラ夫でした。

うまく言葉が出ないと手が出ることもありました。

母はそんな父にいつも苦しめられていました。

父は定年退職後は一切働きに出ることもなかったので、一日中家にいて、母を顎で使っていたので、母のストレスは相当なものだったのだと思います。

およそ体に悪いことは何もせず、健康だった母が突然難病に倒れたのも、父のもたらすストレスが原因だったのだと思います。

 

母の病気は父にとっても青天の霹靂だったはずです。

老後は、母に身の回りの世話をしてもらい、大事にされて死んでいく予定だったのですから。

父は、小心者なので外面はとても良く、母と私にはわがまま放題でした。(なぜか、兄には遠慮してました。)

 

母が入院中、父は、母が退院しても不都合がないように、自分でホームセンターで手すりを買って来て、家の廊下に取り付けたりしていました。

人工呼吸器を付けて眠っている母に、「可愛い顔してるなあ」などと言っていました。

それは母が元気だった頃に言っておけば良かったんじゃないの、救いようのないアホだと私はあきれて聞いていました。

 

で、母が奇跡的に一命をとりとめて、帰宅してきたのですが、母はもう以前の母ではありません。

やはり体が辛かったのでしょう、辛抱強くわがままを言わなかった人でしたが、私には泣きながら電話をかけてきたりするほど弱っていました。(私は遠方に住んでいたので、たまに帰るぐらいで、何もしていません)

父はというと、元通り、家事は一切せず、母にあらゆることを言いつけ、使用人のように使っていました。

手すりを付けたのも、家事ができるようにってことだったんですね。

そうこうしているうちに、父も足腰が弱り(朝から酒を飲んで、運動など一切していなかったのですから、当然のことですが)歩行が難しくなってきました。

いわゆる老老介護状態になってしまったのです。

母はもうこれ以上父と一緒に生活したくない、と訴えてきたので、介護付き老人ホームの、別々の部屋に父と母、両方入ってもらいました。

ここで母はやっと父から解放されたのです。

体は弱っていましたが、表情はかなり柔らかくなり、私もホッとしました。

 

父は、家から出たくなかったのですが、誰も世話をする人がいないので、渋々ホームに入居しました。

母はすぐに打ち解けて、食堂での食事も周りのおばあちゃんたちと楽しくお喋りして過ごしていましたが、父は部屋からほとんど出ず、お酒ばかり飲んで、ろくに食事もしていなかったようです。

私がたまに父の部屋を訪れると、母さんはどうしてるんだ、元気にしているのかと心配し、ここにお母さんを連れてこいと、そればかり言っていました。

母は父の部屋に一度も行きませんでした。父からは電話も頻繁にかかっていたようですが、うるさいししつこいと、それもほとんど出ていなかったようです。

 

一度だけ、食堂で、父が母を見つけ、「お~い!お~い!」と大声で叫んだそうですが、母は恥ずかしいと、無視して自室に戻りました。

 

父はその後体調を崩して入院し、亡くなる1日前に母が一度だけ見舞いました。

そのころには母も認知症を患って、どこまで状況を把握していたかはわかりませんし、父ももう意識が朦朧としていたので、久しぶりに母を見てどう思ったのか、それも私にはわかりません。

 

父は父なりに母が好きたっだのだと思いますが、実に幼稚な愛し方でした。

母は父のことを毛嫌いしていまたが、父は自分がどんなに母に疎まれていたのかわかっていなかったのではと思います。

施設に入ってからの父は寂しい日々だったでしょうね。

でも自業自得です。

 

還暦も迎えていない私が言うのはおこがましいかもですが、いい人生だったかどうかって、老後をいかに過ごしたかで決まるんじゃないかな。

人生プラマイゼロ、ツケは必ず回ってくると、私自身も覚悟しています。

 

私の夫も、ツケがだんだん回ってきている感じです。。。